13.写真に残る城郭、武家屋敷など(※市町村名は2024年6月現在)
城郭および武家屋敷塔については実際に訪れた所が殆どですが、たまたま通り道から見えた城郭を遠望したものなども含めてあります。
近年は城郭の復元が盛んで再訪すると大きく変化しているのが殆どですが、現存する資料に基づいた復元による変化ならば良いが、観光のための建設による変化ならば………。
なお、城郭の標記は「城跡」、「城址」でも「城」としてあります。
《 水 戸 城 》
《 弘 道 館 》
13.写真に残る城郭、武家屋敷など(※市町村名は2024年6月現在)
城郭および武家屋敷などについては実際に訪れた所が殆どですが、たまたま通り道から見えた城郭を遠望したものなども含めてあります。
近年は城郭の復元が盛んで再訪すると大きく変化しているのが殆どですが、現存する資料に基づいた復元による変化ならば良いが、観光のための建設による変化ならば………。
なお、城郭の標記は「城跡」、「城址」でも「城」としてあります。
彼が戦国武将で最も好きなのは立花宗茂。
そして、棚倉は立花宗茂が大名に返り咲いた地であり、彼が何時かは訪れたいと思っていた地でした。
しかし、いざ行って見ると棚倉の地では存在感が殆ど無いのに驚くばかり。
彼は「立花宗茂が居たと言うだけでも観光PRになるのに」と、贔屓のみの思いで私に話していました。
ちなみに、亀 ケ 城(棚倉城)は立花宗茂が福岡県の柳河(柳川)に復帰した以降に築城されています。
《 亀 ケ 城(棚倉城) 》
13.写真に残る城郭、武家屋敷など(※市町村名は2024年6月現在)
城郭および武家屋敷などについては実際に訪れた所が殆どですが、たまたま通り道から見えた城郭を遠望したものなども含めてあります。
近年は城郭の復元が盛んで再訪すると大きく変化しているのが殆どですが、現存する資料に基づいた復元による変化ならば良いが、観光のための建設による変化ならば………。
なお、城郭の標記は「城跡」、「城址」でも「城」としてあります。
[7] 福島県② 三春町
彼は学生時代に剣道をしていたが、部活の担当として関東学生剣道連盟の幹事もしており、同連盟の評議員にG大学OBである秋田先輩がおられた。
秋田先輩は非常に気さくな方だったが三春藩主の直系と聞いており、彼は城内に入った時「世が世なら先輩は殿様で、話す事はおろか顔を見る事すら考えられなかったんだなあ」と私に話していた。
《 三 春 城 》
13.写真に残る城郭、武家屋敷など(※市町村名は2024年6月現在)
城郭および武家屋敷などについては実際に訪れた所が殆どですが、たまたま通り道から見えた城郭を遠望したものなども含めてあります。
近年は城郭の復元が盛んで再訪すると大きく変化しているのが殆どですが、現存する資料に基づいた復元による変化ならば良いが、観光のための建設による変化ならば………。
なお、城郭の標記は「城跡」、「城址」でも「城」としてあります。
1974年7月31日
私達がf初めてこの城を訪れた際に見た天守閣の印象は、「デカい」だった。
そして、会津若松市は「1回目の日本縦断」の際、前日に彼と共に生まれて初めて全く知らない方に泊めていただいた地であり、この日も田島町で泊めていただいた事から、会津地方は彼にとって忘れられない地ともなっている。
《 会津鶴ケ城 》
13.写真に残る城郭、武家屋敷など(※市町村名は2024年6月現在)
城郭および武家屋敷などについては実際に訪れた所が殆どですが、たまたま通り道から見えた城郭を遠望したものなども含めてあります。
近年は城郭の復元が盛んで再訪すると大きく変化しているのが殆どですが、現存する資料に基づいた復元による変化ならば良いが、観光のための建設による変化ならば………。
なお、城郭の標記は「城跡」、「城址」でも「城」としてあります。
◎白石市
《 白 石 城 》
私達がこの城を訪れた時は復元中で、しかも木造による復元でした。
当時の説明板には「復元に際しては、出来るだけ原型に忠実に復元……」とあったのが今も思い出され、私達はこの考えが理想と思っています。
そして、その後も復元が進められているならば、この考えに基づいて進められている事を私達は願っています。
《 武家屋敷 》
《 武家屋敷 》
《 旧有備館 》
13.写真に残る城郭、武家屋敷など(※市町村名は2024年6月現在)
城郭および武家屋敷などについては実際に訪れた所が殆どですが、たまたま通り道から見えた城郭を遠望したものなども含めてあります。
近年は城郭の復元が盛んで再訪すると大きく変化しているのが殆どですが、現存する資料に基づいた復元による変化ならば良いが、観光のための建設による変化ならば………。
なお、城郭の標記は「城跡」、「城址」でも「城」としてあります。
《 九 戸 城 》
二戸駅で東北新幹線から降りて私を組み立てた彼は、「近くに城跡があるから見に行く」という単純な思いで九戸城に向かった。
しかし、見学を終えた彼は「九戸政実の5千と錚々たる武将が名を連ねる豊臣軍6万が戦い、苦戦を強いられた豊臣軍の謀略により落城したそうだ。九戸政実とはどんな武将だろう」と、何気に私につぶやいていた。
そして、このつぶやきは後日に安部龍太郎氏の「冬を待つ城」を読み、理解できたそうです。