5.特に印象に残っている全都道府県の思い出〔7〕東京都、神奈川県
彼と走った思い出は枚挙にいとまがないが、特に印象に残っているものを紹介したい。
(13)東 京 都
1975年7月27日の夕刻。2回目の日本縦断の途中。
東京の青山通りを走行していた際、「軽車両通行禁止」の標識があったため車線を変更したところ、路上の突起物の上を走ってしまい、前輪のアルミ製のリムが曲がって走行不能となってしまった。
走ることも出来ず、「鉄製だったら問題なかったのかな」と思いながら、リムを買うために自転車店を探しながら歩道を歩いていると、派出所の警察官から「休憩していかないか」との声が掛かる。
派出所内で旅行について聞かれるままに、「納沙布岬から走り始め五島列島を目指している事」や「今日は横浜市の緑区にある寮まで走る予定をしていた」事などを話していると、通りかかった小学生が派出所の中に入って来て、曲がっているリムを見ながら「家に使ってないのがあるから持って来てあげる」と言ってくれ、家に取りに帰って派出所まで持って来てくれた。
その時に持って来て頂いたリムは、最期まで使わせていただいた。
彼は「この日を以て2回目の縦断を諦めねばならない」と思っていただけに、この時の小学生と持って行く事を了承してくれたご家族、そして声を掛けてくれたうえ曲がったリムも処分してくれた警察官に今でも感謝している。
1998年11月24日。
八丈島から「すとれちあ丸」にて昼過ぎ三宅島に着く。
観光情報を得るため役場に行くも、担当課の対応は非常に冷たく呆れて後にする。
少し走ると観光協会があるも、役場での事もあり全く期待もせずに入ると、ここでは「島を楽しんで欲しい」との思いが伝わる親切丁寧な対応。
加えて、夕刻に阿古の食料品店で買物をしていると、観光協会で応対された女性から挨拶されて驚く。
そして買物を終えて外に出ると、同じ女性から「泊まる所は決まりましたか」と聞かれ、「まだです」と答えて お願いして見たところ『ほまれ』という宿を紹介してくれ、先に行って話しをされ 彼を待っておられた。
彼は「こんな事は初めてだ」と私に話し、これ以降もこのような事は無かった。
彼は、女性との やり取りについて買物した店のレシートの裏に書いて残したが、これも この時だけで、冒頭には「役場の対応には呆れたが一気に晴れた」とある事から、相当に思うところがあったのだろうと私は推測している。。
この2年後に島は噴火。そして、全島避難との報道がなされた。
応対された『シミズさん』の名は未だに忘れられず、紹介された宿は品が良く安価だったが、現在の島の観光パンフレットには無い。
彼は、観光協会に立寄った事とその後の展開により、三宅島には非常に良い印象を持ち続けている。
また、ところてんを食べない(彼の地元は酢醤油のため)彼が、店頭の貼紙を見て興味本位で食べた「きな粉で食べる ところてん」の味も忘れられないと話しているが、この店も現在の島の観光パンフレットには載っていない。
(14)神奈川県
彼と1974年8月~77年3月まで一緒に住んでいた横浜市緑区の寮。
私は旅行前になるとフロアーで組み立てられて部屋に置かれたが、寮長と先輩方は
理解と黙認、後輩は理解と我慢?してくれていたと思われ、本当にありがたかった。
国道246号線と東急田園都市線が走る交通の便が良いこの地を起点として、関東一帯を走る。
最寄り駅は「たまプラーザ」で、当時の南口は信じては頂けないと思われるが、湿地帯を思わせるような風景もあった。