5.特に印象に残っている全都道府県の思い出[24]鹿児島県
彼と走った思い出は枚挙にいとまがないが、特に印象に残っているものを紹介したい。
(45)鹿児島県
1974年8月19日と2014年2月10日の佐多岬。
1974年は私が産声をあげ、翌日出発した日本縦断の目的地なれど、自動車専用道路と道なき道のため手前約2㎞の地点で断念した日であり、2014年は自動車専用道路が町道になった事を知り、40年の時を経て日本縦断を達成した日である。
当時の記録には、長文となるが次のようにある。
「8月19日。
とうとう来た。俺は道なき道を進み、佐多岬の手前約2㎞の地点に立った。前方には田尻海岸が見えていた。
しかし、佐多岬ロードパークを通してくれないなんて頭にくる。
前年の年末に知った脇道を通って目指すも、”絶対に通らないように”と書かれた看板があったうえ、途中で会った地元の方々からも絶対に通らないようにと言われる。
脇道を進み、ロードパークと合流した所にあった横断歩道を渡って、道なき道を自転車を引っ張って進んで見たが、結局は断念せざるをえなかった。
とんでもない場所に立った俺を見て、観光バスに乗った客がビックリした様子だった。
普通なら佐多岬ロードパークを終点の地として、そこから先は観光バスに乗って岬まで行くらしい。
いったん佐多に戻って山川に渡る予定だったが、着いてみると最終便は出た後だったため、翌日の出港時間が早い根占まで戻ることにした。
根占の町はちょうどお祭りらしく、人の往来が激しく、花火も何発も打ち上げられていた。その花火を見ているうちに、何だか俺を祝福してくれている気分になる。
そして、やっと日本本土中央部縦断が終わった。
達成したという満足感と同時に、もう終わってしまったのかという思いが交錯し、何とも言えない気持ちになっていた。
しかし、俺はやっぱりやったのだ。
あとは福井へ帰るだけである……久しぶりに……。」
※「佐多岬ロードパークを通してくれないなんて頭にくる」について、彼は自動車専用
道路と知りながら、料金所で「宗谷岬から走って来た。目的地の佐多岬まで行きたい
が通らせて頂けないか」とお願いしたが断られたためで、通行を許可しなかった有料
道路の職員の対応は当然至極と思っている。
「2月10日。
午前5時ごろ目が覚めて外を見ると雨。昨夜の天気予報で覚悟はしていたが、佐多岬へ3度目の挑戦となる今回の旅行のメインの日でもあり、呆然とする。
福井を出発する時点の天気予報では、鹿児島県は9日から11日までは"晴れ"とあった事から、雨具を用意しなかったことが悔やまれる。
ホテル佐多岬の支配人Mさんに雨合羽の手配を相談して地元の漁協に聞いてもらうも、漁で使う本格的な物しか置いてないと言われる。
Mさんは親切にも「簡単な物で良いなら、別の店で聞いてみましょうか」と探してくれたお陰で入手できた。
午前9時半過ぎ、合羽を着て本降りの雨の中を出発。
道路は、前回目指して断念せざるを得なかった脇道を使用。
舗装されていなかった この道も きれいに舗装され、勾配こそ厳しいが、前回は苦労したと頭に残っていた事が信じられないほど楽な道に変化していた。
町道となった佐多岬ロードパークに入ると、40年前と同じ場所に横断歩道があった。
懐かしさが込み上げてくると共に、この道を走れる喜びで胸が熱くなる。
しかし、きれいに整備されていた道路脇には樹木が繁り、断念した"道なき道"も完全に無くなっており、『荒れたなぁ』との印象は拭えなかった。
田尻から道は上り勾配となり、年を重ねた私にとってはちょっと大変だったが、北緯31度のモニュメントを左に見て間もなく佐多岬の入口となる隧道に着く。
2月の雨の中、南国といえども吐く息は白く、裸足にゴム草履での走行に加え、かいた汗で全身が濡れているため逆に冷えて、寒さには強いと思っていたにもかかわらず さすがに厳しく、隧道の中に飛び込むように入る。
暖かく感じながら しばらく休憩した後、悲願だった愛車と共に佐多岬に立つべく出発。
ビロウやソテツがが生い茂る道を下りると、すぐに御崎神社に到着。さらに、海から続く参道を下り途中で右に折れると、今度は打って変わって急勾配の階段となり、この階段を15分近く担いだり引っ張ったりして上り、午前11時23分に佐多岬に到着。
40年の時を経て"日本本土中央部縦断"を終えた。
夢にまで見た"佐多岬"に立った感激は何物にも代える事は出来ず、32日間にわたる日々と田尻を目前にして引き返さざるを得なかった時の気持ちが、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
岬に30分ほど滞在して、再び来た道を戻って根占まで走り、飛び込みで宿に入る。
それにしても、佐多から岬に通ずる道は改修されて昔日の面影は無く、予想外に楽な道に変化していた。
この日は、根占に着く直前まで雨が降り続き、本当に寒い一日だった。
そして、寒さの余り飛び込むようにして入った、岬への入口となる隧道。
帰り道、駐車場のトイレに行く際、隧道の左側に注意事項があるのに気付き読むと、『軽車両の進入は禁止』とあり、自転車は軽車両に分類されるためルール順守の俺はこの点について大いに反省している。」。
※「裸足にゴム草履」について、スニーカーが雨に濡れるのを避けるため雨天時には履
き替えている。
※「佐多から岬に通ずる道」については、佐多伊座敷から佐多馬籠までの道路のこと。
町道になっても引いてある横断歩道を見た時「同じ所にある」と言い、佐多岬に立ったとき私に「やっと終わった」としみじみと話した事から、私は彼がこの道路を走る事を如何に待ち望んでいたかを つくづく感じた。
サイクリストとの挨拶について、彼は相手に無視されるのを承知で最期までこだわっていたが、逆に驚かされる事もあった。
2015年3月の下甑島。
この島で彼は「100%と言っても過言で無いほど、すれ違った子供から大人まで歩いている方には声を掛けられ、車を運転している方からは目礼されるという、かつてない経験をした」と言っていた。
この事については本当に驚いたようで、「甑島」とテレビ等で流れると、彼は今も この話を持ち出している。
なお、彼が走行中に全く見ず知らずの方から挨拶されたのは、1990年12月の種子島が初めてで、歩いて帰宅中の女子中学生からの「こんにちは」だった。
「その時は誰にしているのかなと思ったが、周囲をみても俺しかおらず、その地区では殆どの小中学生から挨拶された」と、私に話していたのが懐かしい。
2015年10月25日。
国道504号線から県道479号線を垂水市牛根境に向かう予定が、案内標識を見落とし鹿屋市輝北町まで進んでしまった。
桜島に宿を予約してあった彼は行程的に困難と判断。
キャンセルを念頭においてコンビニエンスストアで宿泊施設を尋ねるも、「鹿屋市内まで無い」と聞き、走るしかないと思いながら店を出ると、買物を終えて出てこられたSさんから声を掛けられる。
Sさんは話している内に事情を理解してくれ、軽のワンボックスで「牛根まで送る」と言って下さり、彼は年を重ねた事もあり お言葉に甘えた。
お蔭で予定どおり旅行を終える事ができ、今も感謝している。