「行った、銀輪走(走った)、見た、知った」……そして残った

サイクリングで駆け巡った彼との45年間

5.特に印象に残っている全都道府県の思い出[25]沖縄県

彼と走った思い出は枚挙にいとまがないが、特に印象に残っているものを紹介したい。

 

(46)沖 縄 県

この県では、彼のサイクリングに於いて「一回のみの貴重な体験」を幾つか させていただいている。

 

1980年12月29日。

彼と私が初めて沖縄の地を走ったのは波照間島

 

波照間空港に降り立った彼は、手荷物として預けた私を受取るも、石垣空港で機内持ち込みが出来ないとして預かられた工具が無かったため職員に申し出ると、すぐに確認してくれた職員に「石垣で詰み忘れてしまった。本当に申し訳ない」と平謝りに謝られ、「いつ着きますか」と尋ねると「明日の1便になります」との答えが返って来た。

 

そして、彼は空港の整備場に案内され、「何でも持って行ってもらえば結構です」と言われ、私を組み立てるのに必要な最低限の工具のみを拝借した。

彼は最期まで同じ工具を使用したが、この工具以外で「私の組み立て及び分解」をしたのは この時の一回のみ。

 

ちなみに、「明日の1便」とは彼が島を発つ便であり、翌日 この便で届いた工具を職員は走って真っ先に持って来てくれ、彼は笑いながら受取っていた。

波照間空港に到着した石垣発の波照間便(1980.12.29)

波照間空港(1980.12.29)

石垣空港(1980.12.29)

1981年1月2日。

波照間島を発って3日後の宮古空港

 

今度は、石垣空港で手荷物として預けられた「輪行袋に入った私」が積み忘れられ、この時も平謝りに謝られたと聞いた。

次便で着くと聞いた彼は、空港の事務所で職員の方々と話しながら私を待っていてくれたらしい。

 

当時は自転車もターンテーブルで出てきた時代で、自転車は一番最初か一番最後に出てくるのが常だった。

 

次便が到着しターンテーブルが回り始めたので、彼はターンテーブルを見ながら私が出てくるのを待っていると隣接するドアが開き、私は当時としては異例の「職員に担がれ『自転車をお待ちのお客様』と呼ばれながら」真っ先に運ばれ、丁重なお詫びと共に彼に引き渡された。

1981年1月2日当時の宮古空港(※1998.02.25撮影)

東平安名岬[宮古島](1981.01.02)

1986年1月2日および3日。

彼は、この日は与那国空港を発ち、石垣空港を経由して2度目の波照間空港に降り立つ予定だったが……。

 

この日、与那国島は快晴なれど強風のため、飛行機は着陸できず全便が欠航となった。

 

ちなみに、与那国島に入った12月31日の石垣島は雨。

石垣空港では与那国空港の天候調査のため出発が遅れた上、「与那国空港の状況によっては引き返す」という条件付きで出発し、雨の与那国空港に着陸した。

 

民宿における宿泊者の雰囲気は、31日の全員が集まっての夕食時から非常に良かったが、欠航により滞在が一日延び、三度目の夕食時も宿泊者全員が泡盛を酌み交わしていたのだろう、楽しそうな雰囲気が輪行袋の中にいた私にも伝わって来た。

 

民宿の方は、2日は飛行機が到着する時間に合わせて宿泊者と荷物を積んで祖納にある宿と空港を往復されていた。

 

1月3日。

民宿の方は、朝早く宿泊者全員の搭乗券を持ってキャンセル待ちの順番を取りに行かれ、帰って来て言われるには「宿としては2番目だった」との事で、この日は到着便に合わせて宿泊者全員と荷物を積んで往復された。

 

このお蔭で、私たちの民宿は1便で一名、2便も一名で「彼」が乗れたが、他の同宿の方の事を考えると申し訳なさそうだった。

なお、キャンセル待ちの搭乗順番は、宿泊者全員が納得する方法で決めたらしく愚痴などは聞こえなかった。

 

しかし、2便に乗れたは良いが、搭乗予定の予約便との乗り継ぎについて必要とされる時間が無い事から、行き先も乗継便名も言わずに「乗り継ぎ時間が短いが どうしたら良いか」を職員に聞くと「何も考えずにカウンターに走って下さい」との返答だった。

石垣空港に着いた彼は、職員の言葉に従い真っ直ぐカウンターに走ると、キャンセル待ちで呼ばれて手続されていた方は「予約の方が見えられたので……」と丁重に断られ、彼は何となく申し訳なかったとの事。

 

彼は伊丹空港で、「俺は4番目だったが、2便が1名しか乗れなかったため、岐阜県から見えられていた若い夫婦が2番目と3番目だった事から、『先にどうぞ』とこころよく譲ってくれた」と私に話して感謝しており、私は宿での雰囲気が良かった事も大きな要因と思った。

 

なお、彼は与那国での欠航が決まった時、年始の時期でもあり計画時点で4日と5日は土日だったが満席で飛行機の予約が出来なかった事から、「少なくても一週間は沖縄に居なければならないだろうと思った」とJR新大阪駅輪行袋の中の私に話したほか、「飛行機が欠航した場合の大変さを身をもって感じた」とも私に話し、併せて「民宿の素晴らしい対応にはに感心するばかりだった」とも話した。

 

いずれにせよ、彼は波照間および宮古の両空港における職員の対応、欠航の際の与那国島の民宿の対応には非常に満足しており、今でも忘れられない貴重な思い出として彼は笑いながら話している。

※「3日の往復」については、彼が搭乗できた2便までの事をいっています。

上空から見る与那国空港付近(1985.12.31)

ティンダバナ(1986.01.01)

1992年2月29日。

久米島で走行中に前輪のチューブが破裂。

 

彼は、すぐそばでサトウキビ刈りをしていた方の軽トラックが見えたので、理由を話して「車を借していただけないか」とお願いすると、二つ返事で貸してくれ、前輪だけを外して私はそのままに置かれ、町まで戻って修理できた。

戻って来た彼は「タイヤとチューブを交換して来た。本当に助かった」と話し、久米島空港を発つ際には「トラックを貸して頂けたお蔭で無事に久米島を回る事ができ、安心して南大東島に渡れる」と私に言って感謝していた。

※「車の運転」について、彼は小松空港までは自宅から車で行くため運転免許証を所持

 していました。

久米島のサトウキビ畑(1992.02.29)

奥武島の畳石[久米島町](1992.02.29)