「行った、銀輪走(走った)、見た、知った」……そして残った

サイクリングで駆け巡った彼との45年間

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17.写真に残る宿泊場所および施設など(※市町村名は2026年3月現在)

宿泊場所について、彼はそれほど重視していなかったことから写真は殆ど無く、残る写真においても閉業している施設が多くあったそうです。

彼は、野宿についてはバス停、鉄道の駅や公共機関に於いては誰にでも目のつく場所で行い、宿泊施設を利用する際には「安価」で私が「雨風をしのげる場所」がある施設を選んでいました。

野宿の際は、碁本的に午前6時前には出発しており、バス停や鉄道駅に於いては始発便と最終便のからみもあり、始発の場合は出発する最低でも60分前までには椅子などの移動した物は全て元通りにした上で、すぐに出発できるよう荷物を整理して私を舎外に出しており、最終便の場合は出発してから最低でも30分は荷物をほどかないほか、私は人が誰も居なくなるまで中には入れてもらえませんでした。

なお、公共機関での野宿に於いては、正面玄関を主とした最も使途の目につくと思われる場所で、雨風をしのげる場所を利用させていただきました。

 ちなみに、彼は「野宿・宿泊施設のいずれにも悪い思い出は無い」と言っています。

  ※ニュージーランドについては、はてなブログの別ブログとして公開している「ニ

   ュージーランド縦断サイクリング1975.12-’76.1」から殆を引用していますの

   で、こちらも見ていただければ幸いです。

   また、写真については個人旅行での再訪際や家族を連れて訪れた際の物も含まれ

   ています。

 

[27] ニュー・ジーランド⑤ 南 島-2 ライムヒルズ( Limehills )、

                                                                         クライストチャーチ( Christchurch )

・ライムヒルズ( Limehills )

《 ライムヒルズ小学校( Limehills School ) 》

彼の1975年12月31日の記録より

 現在、ライムヒルズの小学校の脇にて野宿。

 ブラッフ(Bluff)まで80kmそこそこ。

    明日はスチュワート島(Stewart Island)に着くだろう。

 現在、午後11時56分。

 サマータイムのため、日本より4時間早く新年を迎えるのだが、一年前には外国で新年を、それも野宿で迎えようとは夢にも思ってもいなかった事だ。

 あと2分で新年。

 俺は新年を迎えてから寝る事とした!

 

彼の1976年1月1日の記録より

 A  HAPPY  NEW  YEAR

 午前10時半、野宿した小学校の正門にて1976年の第一歩の記念撮影。

 久々に手袋をはめ、ヤッケを着ての出発。手袋は午前中に外したが、ヤッケは一日中着ていた。

1976.01.01 「ライムヒルズ小学校」で野宿。1976年の第一歩…Limehills

・クライストチャーチ( Christchurch )

《ウィンザー ホテル (Windsor Hotel)  》

彼の1976年1月4日の記録より

 午後1時15分、クライストチャーチに到着。

先ずはインフォメーションへ行き航空券とホテルの予約行うが、ここでは国内全域の庶民用から超高級ホテルまで予約が可能だった。

 到着した際、航空券とホテルの予約をするため、機内に預けた自転車や荷物を受取らずにインフォメーションに行ったため、予約を終えた際にこの事について聞くと「到着後に引き取りが無かった荷物については、専用の保管する場所がある」と言って教えてくれ、引き取りに行く。

 タクシーで今ほど予約したウィンザーホテル(Windsor Hotel)に向かう。カイタイア以来でタクシーに乗ったが、その時の経験から助手席に迷わず乗り込む。

 ホテルには30分程度で着いたが、その間ドライバーが いろいろと説明してくれ楽しかった。

 ホテルに入り荷物を置いた後、支配人に話して家にコレクトコールで電話を掛ける。

 

彼の1976年1月6日の記録より

 8時15分にダイニングへ朝食を食べに行く。

    俺と相席になったビジネスマンは「ライス」を食べていたが、水(お湯かも)の中に米が沈んでいるような感じで、これに砂糖をかけて食べているのには驚くばかりだった。

 8時45分から散歩に出かけ、ロールストン通りを左手に見て、エイボン川に架かるアーマー通り橋(Armagh Street Bridge)を渡り、ホテルの前にあるハグリー公園(Hagley Park)に行く。

 9時45分にウィンザーホテルに戻り、10時ジャストにチェックアウトすると、鍵と引き換えに1$戻って来た。

 このホテルはこじんまりとしているが、支配人をはじめや従業員、部屋はもちろん立地環境に至るまで全てが良かった。

 ※「ウィンザーホテル」については、この時の印象が忘れられず、2000年8月に家族

  と旅行した際にも迷わず予約して宿泊。

  再訪時も支配人は代わっておらず、1976年当時の話をすると非常に喜んでくれ、ホ

  テルの前にある「赤いクラシックカー」に家族を乗せて市内を案内してくれた。

  なお、この時は新館が出来ており こちらに家族5人だけで宿泊させていただいた。

1976.01.06 ハグリー公園から見る「ウィンザーホテル」…Christchurch

1976.01.06 ハグリー公園から見る「ウィンザーホテル」…Christchurch
                                                                                  ※前の写真を拡大したものです

1976.01.06 ハグリー公園から見る「ウィンザーホテル」…Christchurch

1976.01.06 ハグリー公園から見る「ウィンザーホテル」…Christchurch
                                                                                    ※前の写真を拡大したものです

1976.01.04 「ウィンザーホテル」の部屋にて…Christchurch

2000.08.06 「ウィンザーホテル」。再訪時には、本館の建物は1756年1月当時と          
                      同じでしたが、別館(右井の白い建物)が増築されていました…Christchurch
                              ※家族旅行の際に撮影。

 

 「17.写真に残る宿泊場所および施設など(※市町村名は2026年3月現在)」は、今回を以て終了とさせていただきます。

 古い写真が多いため、画像もはっきりしない物が多々ありますが、見ていただいた皆様には感謝申し上げます。

 なお、次回は何時になるかわかりませんが、新しいテーマを設定して当ブログにて公開する予定です。

 

 Mont Blanc 拝








 

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ついて、彼はそれほど重視していなかったことから写真は殆ど無く、残る写真においても閉業している施設が多くあったそうです。

彼は、野宿についてはバス停、鉄道の駅や公共機関に於いては誰にでも目のつく場所で行い、宿泊施設を利用する際には「安価」で私が「雨風をしのげる場所」がある施設を選んでいました。

野宿の際は、碁本的に午前6時前には出発しており、バス停や鉄道駅に於いては始発便と最終便のからみもあり、始発の場合は出発する最低でも60分前までには椅子などの移動した物は全て元通りにした上で、すぐに出発できるよう荷物を整理して私を舎外に出しており、最終便の場合は出発してから最低でも30分は荷物をほどかないほか、私は人が誰も居なくなるまで中には入れてもらえませんでした。

なお、公共機関での野宿に於いては、正面玄関を主とした最も使途の目につくと思われる場所で、雨風をしのげる場所を利用させていただきました。

 ちなみに、彼は「野宿・宿泊施設のいずれにも悪い思い出は無い」と言っています。

  ※ニュージーランドについては、はてなブログの別ブログとして公開している「ニ

   ュージーランド縦断サイクリング1975.12-’76.1」から殆を引用していますの

   で、こちらも見ていただければ幸いです。

   また、写真については個人旅行での再訪際や家族を連れて訪れた際の物も含まれ

   ています。

 

[27] ニュー・ジーランド④ 南 島-1 マイ マイ( Mai Mai )、

                     フォックス氷河( Fox Glacier )

・マイ マイ( Mai Mai )

《 カークランドさん宅 》

彼の1975年12月17日の記録より

 現在、マイマイ(Mai Mai)の鉄道の駅でこれを書いている。この駅もターリキの駅と同じで、小屋があるだけ。

 ……時は過ぎて、現在 深夜の12時半。今度はベッドの上で書いている。

  数時間前、駅でこれを書いていると、カークランドさんが「俺はビル。牧場のフェンスを直していたら駅に行くのが見えたので来たんだが、シャワーでも浴びに来ないか。家はすぐそこだから」とわざわざ言いに来てくれ、俺は二つ返事で好意に甘える事とし、道路に停められていた彼の車について行く。

 家に着くと、奥さんのエリスンを紹介された後、タウポ以来でシャワーを浴びる。

 シャワー室から出て「どうお礼を言おうか」と、皆の居る部屋のドアの前で考えていると、不意にドアが開いてビルが中に入れと言ってくれた。

 部屋に入ると、中では暖炉が赤々と燃え、シャワー上がりの俺には暑いくらいだ。

 食堂ではカークランドさん夫婦が、隣の老夫婦と その孫と思われる10歳位の女の子といろいろと話しており、俺もすぐに話の中に入れられる。

  でっかいコップにビールを3杯くらい飲んだところで、ビルが「腹がへってるだろ」と聞くので「ええ」と答えると夕食の用意をしてくれた上、ニュージーランドのウイスキーだと言ってグラスに注いでくれる。

 食後、辞書を片手にウイスキーを飲みながら、俺の事、日本の事、このサイクリングの事、俺が見たニュージーランドの事を話す。

 話が弾んで、終わったのは深夜12時ジャスト。

 そして今、俺は話している途中でエリスンから「あなたのベッドはここよ」と教えられた部屋のベッドでこれを書いている。

  リーフトンへの変更は、予想外の嬉しい結果をもたらしてくれたコース変更になった。

1975.12.23 「カークランドさんの家(右手前)」。左手奥に野宿しようとした                          
        駅の屋根が見えますが、こちらは私達にしかわからないと思います…Mai Mai

1975.12.23 「カークランドさんの家(右手前)」。左手奥に野宿しようとした                        
                      駅の屋根が見えますが、こちらは私達にしかわからないと思います…Mai Mai

1975.12.23 「カークランドさんの家」…Mai Mai ※前の写真を拡大したものです

・フォックス グレイシャー( Fox Glacier )

《 フォックス氷河 》

彼の1975年12月27日の記録より

 午後8時ちょっと過ぎに、フォックス・グレイシャーの町に着く。

 ここでフィルムと絵葉書4枚だけ買ってフォックス氷河(Fox Glacier)に向かう。

   フォックス氷河に向かう道も未舗装で、水が横切っている所などスピードを出して突っ込まないと途中で止まってしまい、ズブ濡れになりかねない所も少なくない。

 もちろんペダルを漕ぐ事は出来ず、足を前に上げて運にまかせる・

   ここはフランツ・ジョセフ氷河の時とは反対に、右手が開け左手が山になっている。

   午後9時近くと言う事もあってか、町に帰る車は3~4台見たが、俺を追い抜いていく車は1台も無い。

    ここニュー・ジーランドは、南に南下すれば南下するほど日の暮れるのも遅くなり、午後9時と言っても まだまだ明るい。

    早くフォックス氷河を見たい、少しでも近い所から見たいと言う気持ちもあってか、自転車を引っ張って行ったのは良いが……。

 石ころだらけで進むのも容易でなく、もう遅い事もあって遠い所から眺めるだけにし、寝る所について簡単にして考えた末に出たのが「ここでキャンプを張る」事であり、現在テントの中でこれを書いている。

 テントから顔を出して見ると、空には満天の星が輝き、前にはフォックス氷河が横たわっている。

 テントを開ければ、何時でもフォックス氷河が見える。

   そして、物音一つしない静寂の中、澄んだ空気は冷たく、その中に居る人間は俺一人のみ!!

  今日のキャンプは、俺のサイクリングにおけるキャンプの中で最高のキャンプだ!!!

  しかし、寒い!!!

  

彼の1975年12月28日の記録より

 午前8時起床。 間もなく1台の車が氷河に向かって行き、道路の行止りで止めた車から2人の男性が降りて歩いている。

 俺は残っていた食料のビスケット8枚を食べた後、キャンプの始末をする。

    午前9時から氷河を見に行く。目の前に見える氷河も、いざ歩くと意外と距離がある。

 

 ※「簡単にして考えた末に出たのが『ここでキャンプを張る』事であり」について 

  は、適当な野宿する場所は当然の如く無く、彼は「町まで戻ろうか否か」で迷った

  がキャンプを張る事にした。

  なお、彼は出発前にニュー・ジーランド政府観光局で質問した際の返答もあり、キ

  ャンプを張る事について全く迷いは無かった。

  しかし、彼も私も「半世紀を過ぎた現在においては、考えられない事」だろうと

  思っている。

1975.12.27 「フォックス氷河」前でのキャンプ風景… Fox Glacier

1975.12.27 「フォックス氷河」前でのキャンプ風景… Fox Glacier

1975.12.27 「フォックス氷河」前でのキャンプ風景… Fox Glacier
                      ※前の写真を拡大したものです

1975.12.27 「フォックス氷河」前でのキャンプ風景… Fox Glacier

 

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17.写真に残る宿泊場所および施設など(※市町村名は2026年3月現在)

宿泊場所について、彼はそれほど重視していなかったことから写真は殆ど無く、残る写真においても閉業している施設が多くあったそうです。

彼は、野宿についてはバス停、鉄道の駅や公共機関に於いては誰にでも目のつく場所で行い、宿泊施設を利用する際には「安価」で私が「雨風をしのげる場所」がある施設を選んでいました。

野宿の際は、碁本的に午前6時前には出発しており、バス停や鉄道駅に於いては始発便と最終便のからみもあり、始発の場合は出発する最低でも60分前までには椅子などの移動した物は全て元通りにした上で、すぐに出発できるよう荷物を整理して私を舎外に出しており、最終便の場合は出発してから最低でも30分は荷物をほどかないほか、私は人が誰も居なくなるまで中には入れてもらえませんでした。

なお、公共機関での野宿に於いては、正面玄関を主とした最も使途の目につくと思われる場所で、雨風をしのげる場所を利用させていただきました。

 ちなみに、彼は「野宿・宿泊施設のいずれにも悪い思い出は無い」と言っています。

  ※ニュージーランドについては、はてなブログの別ブログとして公開している「ニ

   ュージーランド縦断サイクリング1975.12-’76.1」から殆を引用していますの

   で、こちらも見ていただければ幸いです。

   また、写真については個人旅行での再訪際や家族を連れて訪れた際の物も含まれ

   ています。  

 

[27] ニュー・ジーランド③ 北 島-3 オタキ( Otaki )、

                     ウェリントン( Wellington )

・オタキ( Otaki )

《 カーキークさん宅 》※2泊させていただきました

彼の1975年12月12日の記録より

 朝食を食べていると、子供たちは次々と声を掛けてくれて学校に行ってしまった。

 ローリーにこれからの予定を聞かれたので教えると、「詳しい地図があるから」と4枚くれる。

 また、「マーティリー(Matiere)に友人が、オタキ(Otaki)に両親がいるから是非 寄って行け」と住所を教えてくれ、紹介状も書いてくれる。

 午前10時。奥さんから昼食を渡され、ローリーと奥さんに見送られてタウポを後にする。

 

彼の1975年12月17日の記録より

 オタキの町は、国道1号線より約2㎞海岸寄りにあった。

 ローリーの両親の家を探すと難なく見つかるも、英会話力ゼロがたたって どの様に入って良いか分からない。

 家のフェンスの前で、何と言って入って行けば良いのか分からず、中を覗きながら迷っていると、ローリーの父親のカーキークさんが不審そうに近付いて来る。

 本来ならば気まずくなるのだが、この時は「ラッキー」と思った。

 そして、彼にローリーが書いてくれた手紙を見せると、それを読むなり表情を緩めたカーキークさんは「家に入りなさい」と歓迎してくれ、奥さんのルイスにも紹介され改めて「ホッ」とする。

 夕食後、ルイスも交え三人でお茶を飲みながら、辞書を片手に文法などは無視して単語をつなぎ合わせながら何とか話す。

1975.12.17日と18日に泊めて頂いた「カーキークさんの家」…Otaki
                    ※1990.02.12個人で再訪した際に撮影

「カーキークさんの家」…Otaki ※1990.02.12個人で再訪した際に撮影

「カーキークさんの家」…Otaki ※1990.02.12個人で再訪した際に撮影

「カーキークさんの家」…Otaki ※1990.02.12個人で再訪した際に撮影

・ウェリントン( Wellington )

《 ピーポーズ・パレス ホテル( PEOPLES PALACE HOTEL ) 》

1976.01.07 「ピーポーズ・パレス ホテル」…Wellington

1976.01.07 「ピーポーズ・パレス ホテル」…Wellington ※前の写真を拡大したものです








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17.写真に残る宿泊場所および施設など(※市町村名は2026年3月現在)

宿泊場所について、彼はそれほど重視していなかったことから写真は殆ど無く、残る写真においても閉業している施設が多くあったそうです。

彼は、野宿についてはバス停、鉄道の駅や公共機関に於いては誰にでも目のつく場所で行い、宿泊施設を利用する際には「安価」で私が「雨風をしのげる場所」がある施設を選んでいました。

野宿の際は、碁本的に午前6時前には出発しており、バス停や鉄道駅に於いては始発便と最終便のからみもあり、始発の場合は出発する最低でも60分前までには椅子などの移動した物は全て元通りにした上で、すぐに出発できるよう荷物を整理して私を舎外に出しており、最終便の場合は出発してから最低でも30分は荷物をほどかないほか、私は人が誰も居なくなるまで中には入れてもらえませんでした。

なお、公共機関での野宿に於いては、正面玄関を主とした最も使途の目につくと思われる場所で、雨風をしのげる場所を利用させていただきました。

 ちなみに、彼は「野宿・宿泊施設のいずれにも悪い思い出は無い」と言っています。

  ※ニュージーランドについては、はてなブログの別ブログとして公開している「ニ

   ュージーランド縦断サイクリング1975.12-’76.1」から殆を引用していますの

   で、こちらも見ていただければ幸いです。

   また、写真については個人旅行での再訪際や家族を連れて訪れた際の物も含まれ

   ています。

 

[27] ニュー・ジーランド② 北 島-2 オークランド( Auckland )

《 ローヤル・インターナショナル ホテル( Royal International Hotel ) 》

 宿泊した日に宿泊した、ダウンタウンにあったホテルから見る夜景です。

1975.11.29 「ローヤル・インターナショナル ホテル」から見るオークランドの夜景
                                  …Auckland

1975.11.29 「ローヤル・インターナショナル ホテル」から見るオークランドの夜景
                                  …Auckland

1975.11.29 「ローヤル・インターナショナル ホテル」から見るオークランドの夜景
                                  …Auckland

《 オークランド ユースホステル( Auckland Youth Hostel ) 》

彼の1975年12月6日の記録より

 メインのクイーンストリート(Queen street)をわざと通らず、裏道を通ってオークランドユースホステルに入る。

 と言っても、本当は「入れた」だが。

 このユースホステルで、ワーキングホリデーでオーストラリアで5ヵ月間生活していたと言う、日本人のAさんに親切にして貰う。

 Aさんは、明日カイタイアへ向かうとの事。

 もう一人 日本の女性を見たが、彼女は満員のため断られ荷物を持って出て行った。

  ユースホステルで料金1$50¢と毛布30¢の計1$80¢を払ってベッドに荷物を運ぶ。ただし、食事は無し。

 ぺアレントが物凄く親切な人で、自転車を物置の様な所に入れてしまい鍵まで掛けてくれた。

 テ・カオ以来で日本人と話す。

       1975.12.07 「オークランド ユースホステル」。                                               
                             私は左下に見える格納庫で一夜を快適に過ごしました…Auckland

1975.12.07 「オークランド ユースホステル」…Auckland

1975.12.06 「オークランド ユースホステル」のホステルのスタンプ

《 レイルトン ホテル( The Railton Hotel ) 》※2泊しました

彼の1976年1月8日の記録より

 タクシーのドライバーは40歳位の小母さんだったが、いろいろと話して楽しかった。

 助手席に乗り「レイルトン・ホテル(Railton Hotel)へお願いします」と何度口で言っても理解してもらえず、最後の手段の予約証を見せると直ぐに理解してくれた。

 原因は「レイルトン」のアクセントであり、ホテルに向かう車中においては、運転する小母んが納得するまでアクセントの反復練習が楽しく繰り返された。

 そして、単語を話しているつもりでも、「アクセントの違いで全く理解してもらえない」事を身をもって体験すると共に、サイクリング中の事を思うとニュージーランドで出会った人達の優しさを改めて思った。

 何時でもそうだが、分からない時は「分からない」と日本語で言っても通用したため、俺はどれだけ使ったか知れない。

  ホテルに着き、2泊朝食付きで15$を支払い部屋に入る。

1976.01.09 「レイルトン ホテル」にて帰国に係る荷物の整理中の彼…Auckland

1976.01.09 「レイルトンホテル」にて帰国に係る整理を終えたすべての荷物。
私は奥の青い輪行袋の中に入っています…Auckland

ニュージーランド縦断サイクリング旅行の最後に宿泊した、クイーンストリートに面して
建つ レイルトンホテル(右手)と…Auckland ※1990.02.15個人で再訪した際に撮影        

ニュージーランド縦断サイクリング旅行の最後に宿泊したレイルトンホテル…Auckland
※前の写真を拡大したものです。 ※1990.02.15個人で再訪した際に撮影                          

 

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17.写真に残る宿泊場所および施設など(※市町村名は2026年3月現在)

宿泊場所について、彼はそれほど重視していなかったことから写真は殆ど無く、残る写真においても閉業している施設が多くあったそうです。

彼は、野宿についてはバス停、鉄道の駅や公共機関に於いては誰にでも目のつく場所で行い、宿泊施設を利用する際には「安価」で私が「雨風をしのげる場所」がある施設を選んでいました。

野宿の際は、碁本的に午前6時前には出発しており、バス停や鉄道駅に於いては始発便と最終便のからみもあり、始発の場合は出発する最低でも60分前までには椅子などの移動した物は全て元通りにした上で、すぐに出発できるよう荷物を整理して私を舎外に出しており、最終便の場合は出発してから最低でも30分は荷物をほどかないほか、私は人が誰も居なくなるまで中には入れてもらえませんでした。

なお、公共機関での野宿に於いては、正面玄関を主とした最も使途の目につくと思われる場所で、雨風をしのげる場所を利用させていただきました。

 ちなみに、彼は「野宿・宿泊施設のいずれにも悪い思い出は無い」と言っています。

  ※ニュージーランドについては、はてなブログの別ブログとして公開している「ニ

   ュージーランド縦断サイクリング1975.12-’76.1」から殆を引用していますの

   で、こちらも見ていただければ幸いです。

   また、写真については個人旅行での再訪際や家族を連れて訪れた際の物も含まれ

   ています。

 

[27] ニュー・ジーランド① 北 島-1 テ・カオ( Te Kao )、

                                                                       マンゴヌイ( Mangonui )

・テ・カオ ( Te Kao )

《 大洋漁業(現:マルハ)の駐在員宿舎 》※2泊させていただきました

彼の1975年11月30日の記録より

 10分遅れの午後4時45分に飛行機は離陸し、ファンガレイ(Whangarei)を経由して午後6時15分にカイタイア(Kaitaia)へ着くも、快晴であったオークランド(Auckland)が嘘のような雨模様である。

 空港のロビーにて、出て来たカイタイア便のパイロットとスチュワーデスから話し掛けられ、全く訳の分からない会話を行った。

 話の中で宿泊先について聞かれた際、野宿するつもりだったため「決まっていない」と答えた事が要因だと思われるが、心配してくれたクルーとNACカイタイア支店の職員の世話で、テ・カオ(Te Kao)に居られる日本の大洋漁業の現地駐在員の家に泊めて頂く事なってしまい驚くばかり。

 NAC職員の案内でタクシーに乗り、テ・カオに着くと駐在員のNさんとIさん両名とも、俺を嫌な目で見るどころか反対に歓迎してくれた。

  二人が最初に連れて行ってくれたのはマオリ人のリッキーの家で、奥さんのボニーが鯛の刺身や、ウィンナコーヒーとケーキで歓迎してくれた。

 午後10時30分ごろ二人の借家に戻り、空けて頂いた部屋で寝る。

 ※・NACはニュージーランドの国内航空。

  ・「テ・カオの宿泊先について」、彼は私に「本人が全く知らないうちにNACの皆

   さんが連絡を取って下さり決まっていたもので、信じられないような出来事と親 

   切さに驚くばかりだった」と話していた。

 

彼の1975年12月1日の記録より

 午前7時。Nさんの車でレインガ岬(Cape Reinga)に向かう。

 これは、時化(シケ)のため仕事が出来ない事から、予定を変更して送って下さったもの。                               

 Nさん、Iさんの両氏と共に、ここNew Zealandの最北端に位置し今回の出発地でもあるレインガ岬に着く。

 車から降りると風雨が余りにも強かったが、先ず辺りを見学した後、運よくあった公衆便所の中で愛車を組み立てる。

 「風が大変強いため、今日も泊まって行け」とNさんから言われ、お言葉に甘える事として殆どの荷物を持って帰っていただく。

 先ずは、最先端にある灯台まで行く。

 そこにある方向指示標の一つに「TOKYO 〇〇〇〇km」と あるのを見た時、改めて俺は外国に来たんだと思う。

 そして、今日の目的地テ・カオ(Te Kao)に向かう。

 道の両サイドは、ほとんど全部と言ってもいい位に羊牧場が続き、のどかそのもの。

 だが、未舗装のうえに上り下りが激しく、加えて向かい風で、道が下りにもかかわらずぺダルを漕がなければ進まないのには閉口した。

 おかげで、50km程度の道にかかった時間が実に6時間と、予定を2時間も上回る信じられない初日となった。

  宿舎に戻り、日本の水道の感覚で水を飲んでいると、Nさんに「この辺りは雨水を貯めて飲み水にしているため、沸かしたものしか飲んではいけない」と言われたほか、Iさんは「テ・カオ付近では全く泥棒はいないし、ニュージーランド全体でも滅多に無い」と言われた。

 このほか、二人に「ニュージーランドでは日本とは正反対で、食事は男が作り、後片付けも男がする」という嘘のような話を聞いたが、はっきり言って信じられない。

  午後9時30分 消灯。今日は大変だった。

1975.12.02 NAC(航空会社)のクルーの紹介で泊めて頂いた
                     「大洋漁業(現:マルハ)の駐在員宿舎」…Te Kao

1975.12.02 NAC(航空会社)のクルーの紹介で泊めて頂いた
                     「大洋漁業(現:マルハ)の駐在員宿舎」…Te Kao

1975.12.02 NAC(航空会社)のクルーの紹介で泊めて頂いた                                                      
                 「大洋漁業(現:マルハ)の駐在員宿舎」…Te Kao ※前の写真を拡大したものです

・マンゴヌイ ( Mangonui )

《 ディグビーさん宅 》

彼の1975年12月2日の記録より

 タイパ(Taipa)を抜け、午後8時ちょっと前にマンゴヌイ(Mangonui)着。

 立ち止まっていると自転車に乗った二人連れの小学生に会う。

 「どこから来たの」と聞くので「日本から」と答えると、狐につままれた様な顔をしている。

 そして、自転車に付いているポリタンク(3ℓ入り)を指して「何を入れるの」と聞くので「水」と答えると、「入ってないから汲んで来てあげるよ」と言われ頼む。

 が、戻って来て言うには「今日はどこに泊るの」と聞くので「決まってない」と答えると「家に来ないか? おいでよ」と言う。

 日本を出る時、「現地の人の家に入れたらなあ」と思ってはいたが、チャンスが余りにも早く来すぎたため さすがに一瞬ためらったが、やはりチャンスだ。

 「All right」と言って付いて行く。

    玄関ではディグビーさんと奥さんのパット、それにデッカイ犬が俺を待っていてくれた事から、俺を泊める事が決まっていたと思われた。                                             

 当たり前だが、全く見ず知らずの、それも外国人の俺を歓迎して下さる。

 

 彼の1975年12月3日の記録より

 パットから出発時間を聞かれ「8時15分」と答えると、パットは「私達 もう行かなきゃならないから、鍵を掛けて行ってね」と隠し場所を教えて鍵を渡され、「学校に子供を送って仕事に行く」と言って、俺一人を残して出かけてしまった。

 信じられない話だが、それも外国で。

 鍵を掛け、所定の隠し場所に置いて45分遅れの9時に出発。

 日本でも幾らか見ず知らずの人に泊めて頂いたが、他人の家の鍵を掛けて出て行ったのは これが初めて。

 ※私達が全く知らない方に泊めて頂いて『鍵を掛けて出発』したのはこの一回のみ

  で、彼はこの家族と今も付き合いがあります。

1975.12.03 「ディグビーさんの家(青い屋根の家)」…Mangonui

1975.12.03 「ディグビーさんの家(青い屋根の家)」…Mangonui
※前の写真を拡大したものです       

1975.12.03 「ディグビーさんの家(青い屋根の家)」を背に…Mangonui




 

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17.写真に残る宿泊場所および施設など(※市町村名は2026年3月現在)

宿泊場所について、彼はそれほど重視していなかったことから写真は殆ど無く、残る写真においても閉業している施設が多くあったそうです。

彼は、野宿についてはバス停、鉄道の駅や公共機関に於いては誰にでも目のつく場所で行い、宿泊施設を利用する際には「安価」で私が「雨風をしのげる場所」がある施設を選んでいました。

野宿の際は、碁本的に午前6時前には出発しており、バス停や鉄道駅に於いては始発便と最終便のからみもあり、始発の場合は出発する最低でも60分前までには椅子などの移動した物は全て元通りにした上で、すぐに出発できるよう荷物を整理して私を舎外に出しており、最終便の場合は出発してから最低でも30分は荷物をほどかないほか、私は人が誰も居なくなるまで中には入れてもらえませんでした。

なお、公共機関での野宿に於いては、正面玄関を主とした最も使途の目につくと思われる場所で、雨風をしのげる場所を利用させていただきました。

 ちなみに、彼は「野宿・宿泊施設のいずれにも悪い思い出は無い」と言っています。

 

[26] 沖 縄 県③ 多良間村(多良間島)、石垣市(石垣島)

・多良間村(多良間島)

《 民宿 丸宮 》

2016.02.27 「民宿 丸宮」…多良間村塩川 (多良間島)

2016.02.27 「民宿 丸宮」…多良間村塩川 (多良間島)

2016.02.27 「民宿 丸宮」…多良間村塩川 (多良間島)

2016.02.27 「民宿 丸宮」…多良間村塩川 (多良間島)

・石 垣 市(石垣島)

《 石垣邸ホステル(石垣YH) 》

 私達はこのYHに1980年12月と1985年12月に各々二泊ずつ利用しています。

 1983年10月には、庭園が「国指定名勝」に指定されました。

 

 2回目は2年後に利用しましたが、ご主人から庭を見ながら伺った「文化財に指定されたが故の苦労話」を私達は今も忘れません。

 また、庭を背に写した私の写真は私の宝物で、現在ではこの場所まで入る事は出来ないのではないかと思っています。

 なお、彼は1980年と1985年の12月に宿泊した際の「ホステルのスタンプ」を公開するそうです。

1985.12.30 「石垣邸ホステル(石垣YH)」と石垣氏庭園。                                        
                         ユースホステルは石垣氏邸で左に見える建物です…石垣市新川 (石垣島)

1985.12.30 「石垣邸ホステル(石垣YH)」と石垣氏庭園。                                          
                    ユースホステルは石垣氏邸で左に見える建物です…石垣市新川 (石垣島)

1985.12.30 「石垣邸ホステル(石垣YH)」と石垣氏庭園。                                            
                   ユースホステルは石垣氏邸で左に見える建物です…石垣市新川 (石垣島)

1980.12.30-31 「石垣邸ホステル」のホステルのスタンプ

1985.12.29-30 「石垣邸ホステル」のホステルのスタンプ

 

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17.写真に残る宿泊場所および施設など(※市町村名は2026年3月現在)

宿泊場所について、彼はそれほど重視していなかったことから写真は殆ど無く、残る写真においても閉業している施設が多くあったそうです。

彼は、野宿についてはバス停、鉄道の駅や公共機関に於いては誰にでも目のつく場所で行い、宿泊施設を利用する際には「安価」で私が「雨風をしのげる場所」がある施設を選んでいました。

野宿の際は、碁本的に午前6時前には出発しており、バス停や鉄道駅に於いては始発便と最終便のからみもあり、始発の場合は出発する最低でも60分前までには椅子などの移動した物は全て元通りにした上で、すぐに出発できるよう荷物を整理して私を舎外に出しており、最終便の場合は出発してから最低でも30分は荷物をほどかないほか、私は人が誰も居なくなるまで中には入れてもらえませんでした。

なお、公共機関での野宿に於いては、正面玄関を主とした最も使途の目につくと思われる場所で、雨風をしのげる場所を利用させていただきました。

 ちなみに、彼は「野宿・宿泊施設のいずれにも悪い思い出は無い」と言っています。

 

[26] 沖 縄 県② 宮古島市(宮古島)

《 うるま荘 》

 この宿のご主人は何故か彼と気が合い、素泊りにも関わらず家族の夕食に誘ってくれたそうです。

 この日のメニューは『すき焼き』で、ビールや泡盛を飲みながらご主人が「沖縄は豚肉よりも牛肉の方が安い」と話し、「どんどん食べてくれ」と言われるのを聞いて「本土と逆だなぁ」思ったそうです。

 そして、家族と会話しながら腹いっぱい食べて飲んだそうです。

 ちなみに、翌日の支払いは素泊り料金だったそうで、これにも驚くばかりだったそうです。

1998.02.25 「うるま荘」で私を分解中…宮古島市平良 (宮古島)                                       
                  ※雨天のため私は輪行袋に入れられ、私達はタクシーで空港に向かいました 

1998.02.25 「うるま荘」で私を分解中…宮古島市平良 (宮古島)                                         
                  ※雨天のため私は輪行袋に入れられ、私達はタクシーで空港に向かいました

1998.02.25 「うるま荘」で私を分解中…宮古島市平良 (宮古島)                                         
                  ※雨天のため私は輪行袋に入れられ、私達はタクシーで空港に向かいました

《 ゲストハウス・フェーヌカジ 》

2016.02.26 「ゲストハウス・フェーヌカジ」…宮古島市平良(宮古島)

2016.02.26 「ゲストハウス・フェーヌカジ」…宮古島市平良(宮古島)

2016.02.26 「ゲストハウス・フェーヌカジ」…宮古島市平良(宮古島)

《 ゲストハウスHidamari 》

2016.02.29 「ゲストハウスHidamari」…宮古島市平良 (宮古島)

2016.02.29 「ゲストハウスHidamari」…宮古島市平良 (宮古島)
                      ※前の写真を拡大したものです


《
ゲストハウスゆくい 》

  彼のお気に入りの宿で、1998年2月以来で18年ぶりに泊まりました。

 前回は、「山羊の肉は物凄く臭いのでヨモギと一緒に煮込む」と聞きながら出来立ての『ヒージャー汁』をサービスで食べさせて頂いた、生まれて初めて山羊肉を食べた場所です。

 食べた感想について、彼は「特に臭いとは思わなかった」と言っていました。

 ちなみに、2回とも素泊まりでした。

2016.02.27 「ゲストハウスゆくい」…宮古島市平良狩俣 (宮古島)

2016.02.27 「ゲストハウスゆくい」…宮古島市平良狩俣 (宮古島)

2016.02.27 「ゲストハウスゆくい」…宮古島市平良狩俣 (宮古島)
                      ※前の写真を拡大したものです