1.私について
私は「Mont Blanc(モンブラン)」。
名前は製作所のブランド名で、自転車の種類ではキャンピング車と言われていた。
彼は45年間に渡り私1台のみを乗り続け、一緒に全国と1度だけ外国を駆け巡った。
1973年の初秋。彼はこれまで使っていた軽快車を改造した自転車の「ダイアコンペ製のブレーキが付いた栄製のハンドル」と「高橋製の皮サドル」を町田市のクリーニング店の一角で営業していた「白馬製作所」に持ち込み、フレームはクロモリフルセットに3ℓのポリタンクを装備、部品は空気入れを除き全て国産品を使用(リヤディレーラーは前田工業製の「サンツアー・V-GT LUXEを指定)とし、色は大学の部活の色だった「臙脂」を指定。製作費はポリタンクと4個のサイドバッグを含めて約8万円だったと聞いている。
当時18歳の彼がこの店を選んだ理由は、①当時住んでいた所から近かった、②雑誌「サイクルスポーツ」の情報から「高級車を作る店」ならば良い自転車を作ってくれるだろうという単純な思い込み以外の何ものでもなく、製作期限も設定していないため出来上がりを待つのみだが、彼は年末には手に入ると思っていたらしい。しかし……
1974年7月18日。彼は町田市から新宿に移転した「白馬製作所」で、輪行袋に入った私を手にした。
その時、彼は実行出来るか否かは別に達成してみたい事として
①日本縦断
②全都道府県の走行
③民間人が行く事が可能な日本の東西南北端に立つ
④海外走行
⑤全都道府県の県庁所在地の走行
の順に5つの目標を立てた。
私は、この日から彼と行動を共にしたが、私一台のみをこれほど長く乗り続けてくれるとは思いもせず、私自身これほど耐久性があるとは予想だにしなかった上、彼が立てた5つの目標についても達成できるとは夢にも思えなかった。
彼は私を大事に乗り続けてくれたが、大切にしてくれたかと問われたなら否定せざるを得ない。私は旅行が終わると次の旅行まで輪行袋に入れられたままの状態で置かれていたが、このような状況にあっても長く乗り続けられたのは、殆ど故障が無かった事と手に負えない状態になると持ち込んだ、彼が小学生の頃からパンクや修理でお世話になっている福井市の郊外にある町の自転車屋さん、「加藤サイクル」のご主人の技術とアイデアが大きなウェイトを占めていたと思っている。
私は1974年7月19日の夕刻に国鉄稚内駅前の小さな旅館で組み立てられて産声を上げたが、ヘッドチューブには「白馬」のエンブレムが付けられておらず彼は寂しそうにしていた。
そして時は過ぎ、2019年6月11日の午後2時ごろ。岩手県の区界峠で「全ての旅行を共にした腕時計(SEIKO製)、缶切り、フォーク」と共に予想もしなかった形で最期を迎え、彼が最終日に必ず口ずさむ「蛍の光」の2番を聞くことは無かった。
北海道・宗谷岬(1974.07.20、産声をあげた翌日)