11.写真に残る空港および航空機(※市町村名は2023年12月現在)
空港については乗り継ぎした空港も含めており、利用した航空機については偶然目にした機も含まれています。
なお、空港については彼の旅行の発着地になる事から、利用した回数から見ると殆ど写真はありません。
《 波照間空港 》
1980年12月29日。
彼と私が初めて沖縄の地を走ったのは波照間島。
波照間空港に降り立った彼は、手荷物として預けた私を受取るも、石垣空港で機内持ち込みが出来ないとして預かられた工具が無かったため職員に申し出ると、すぐに確認してくれた職員に「石垣で詰み忘れてしまって、本当に申し訳ない」と平謝りに謝られ、「いつ着きますか」と尋ねると「明日の1便になります」との答えが返って来た。
そして、彼は空港の整備場に案内され、「何でも持って行ってもらえば結構です」と言われ、私を組み立てるのに必要な最低限の工具のみを拝借した。
彼は、私が最期を迎える旅行まで同じ工具を使用したが、この工具以外で「私の組み立て及び分解」をしたのは この時の一回のみ。
ちなみに、「明日の1便」とは彼が島を発つ便であり、翌日 この便で届いた工具を職員は走って真っ先に持って来てくれ、彼は笑いながら受取っていた。
なお、当時は工具をフロントバッグに入れたままでも所持品検査が通り、初めての経験だけに彼は「なんで?」と驚いていたが、機内持込検査は年々厳しくなる一方で、彼は「機内持込荷物への同梱は当たり前」の事となっており、彼は輪行袋の中に私と一緒に工具を入れて運んでいた。
余談ですが、彼は大阪空港では全旅行を共にした「缶切り」と「フォーク」が検査に引っかかって預けており、「缶切り」について若い検査官は何をする道具か知らなかったため、使い方を説明したとも話していた。
ちなみに、この「缶切り」と「フォーク」は当ブログの『1.私について』(※当ブログを始めた2022年10月26日に公開した初回です)で紹介してあります。
《 与那国空港 》
1985年12月31日
入島の際は、「天候調査中」と表示され遅れていたが「引き返すこともある」という条件で出発し、雨の与那国空港に無事着陸。
1986年1月2日
島を出る際には、快晴なれど強風のため全ての便が着陸できず欠航となり、同じ民宿に宿泊。
これにより、彼は飛行機が欠航した場合の大変さを知ったと共に、欠航の際の民宿の対応に非常に満足している。
1986年1月3日
この日の2便に運良く搭乗する事が出来、福井に帰着。
正月と言う事もあり、彼はこの便に乗れなかったら更に数日は沖縄県に滞在するつもりでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
乗れたのは最後の1席に対し搭乗順番の方が同宿のご夫婦だったため譲ってくれたもので、乗継時間が無いため職員に「荷物(私のこと)の受取りはどうしたら良いですか」と聞くと「荷物の事は考えず、真っ直ぐカウンターに走って下さい」だった。
石垣空港のカウンターに着くと、キャンセル待ちで手続されていた方が受付職員より「誠に申し訳ありませんが、正規のお客様が見えられましたので次便以降とさせて頂きます」と断られ、彼は内心申し訳ないと思ったそうです。
なお、民宿の対応について2日の全便と3日の1便については、飛行機の到着時間になると搭乗予定者とキャンセル待ちの宿泊者全員を荷物と共に空港まで送り、引き返したことが判明すると民宿まで戻る事を繰り返してくれました。
3日は早朝に宿泊者全員の搭乗券を持ってキャンセル待ちの順番を取りに行き、私達の民宿は2番目だったそうです。
それから、搭乗順番については宿泊者全員によるジャンケンで決めたと彼から聞いており、夫婦の方についてはどちらか1人がジャンケンに参加し連番としたそうです。
最後に、宿泊者は全員なぜか気が合い雰囲気がよく、宿も非常に居心地が良かったそうで、12年後の1997年に「フェリーよなぐに」で訪れた時も、彼は同じ民宿に泊まっています。