11.写真に残る空港および航空機(※市町村名は2023年12月現在)
空港については乗り継ぎした空港も含めており、利用した航空機については偶然目にした機も含まれています。
なお、空港については彼の旅行の発着地になる事から、利用した回数から見ると殆ど写真はありません。
《 宮古空港 》
1981年1月2日。
石垣空港で手荷物として預けられた「輪行袋に入った私」が積み忘れられ、この時も平謝りに謝られたと聞いた。
次便で着くと聞いた彼は、空港の事務所で職員の方々と話しながら私を待っていてくれたらしい。
当時は自転車もターンテーブルで出てきた時代で、自転車は一番最初か一番最後に出てくるのが常だった。
次便が到着しターンテーブルが回り始めたので、彼はターンテーブルを見ながら私が出てくるのを待っていると、ターンテーブルの荷物が出てくる前に隣接するドアが開き、私は当時としては異例の「職員に担がれ『自転車をお待ちのお客様』と呼ばれながら」真っ先に運ばれ、丁重なお詫びと共に彼に引き渡された。
また、何時だったかは覚えていないが、彼は那覇空港から羽田経由で小松に帰る時に考えられない経験をしている。
これは、彼が搭乗予定の那覇に向かうJAL便が「遅延」と表示されたため、カウンターで聞くと「那覇空港が○○○で混雑のため出発できない」と言われた。
しかし、この時に対応したJALの地上職員は『次便でも乗継に間に合う事から、ANAのカウンターに行き空席の状況を確認して、搭乗の手続きをしてくれた事は忘れられない』と今も話している。
もちろん、私もANAの計量台に移動したが、その時は全く理解できなかった。
なお、この事について、結果的には当初のJAL便がギリギリで間に合う時間の出発となったため、私は再びJALの計量台に乗り機内に収納された。
この空港では考えられない経験をしているが、いずれにしても対応が非常に良かったため、彼はこの空港には思い入れが強い。
《 下地島空港 》
※彼は下地島には伊良部島から橋を渡って入っているため、この空港は見ただけで利用して
おりません。
当時は定期便の就航は無く、パイロットの訓練専用空港でした。