4.三大サイクリングについて[2]
(3)ニュー・ジーランド縦断(レインガ岬~スチュワート島)[1975.12.01~1976.01.03]
1976年1月3日にサイクリングを終え、クライストチャーチ、ウェリントン、オークランドに各2日滞在。
そして、最後の夜となった9日の彼の日記には、「本日で終わりなんて信じられないくらい早い42日間であったが、俺には随分プラスになったと思う。そして又、本当のN.Z.を知ったと思う。素晴らしい自然、素晴らしい人々Peopleである。俺は来て良かったと思うし、又 何時か必ず来たい国、それがN.Z.である。」とある。
当時 日本からニュー・ジーランドへの直行便は無く、シドニー乗継ぎでオークランド空港に降り立った日本人は、現地で家庭を持たれている男性と彼の二人のみ。
男性から掛けられた言葉は「日本の方ですか」であり、この方の義父の車でホテルまで送って頂いた。
11月29日の入国の際には「私を持って帰る事の確認」は行われたが、ガイドブックに書かれた「靴に付着した土も指摘される」事は無く、服装についても当時の海外旅行のガイドブックには「キチンとした身なりで入国するように(※スーツ又はこれに準ずる服装の事)」とあった事から、スーツを持っていなかった彼はブレザー、ワイシャツ、スラックスにネクタイを締め革靴を履いて入国したが、出る時は現地の人と同じくラフな服装での出国だった。
彼が知っている限り、当時 市販のニュー・ジーランドのガイドブックは単独の物は1冊のみで、他にはオーストラリアの付け足し然の併載が1冊あったのみだそうだ。
ちなみに、彼が私を掃除したのは 「土の付着を指摘されないための出発前」と「帰国後に付着した物を記念として取っておくため」に行った2回のみ。
このほか、出発地のレインガ岬に向かうため搭乗したNAC(現地航空会社)のカイタイア便のクルーから宿泊について聞かれ、「決まっていない」と答えた事が要因だと思われるが、彼が知らないうちにクルーと同社カイタイア支店の職員の世話で「テカオ(Te Kao)にある日本の水産会社の現地駐在員」の家に泊めてもらえる事となり驚くばかり。
彼はNAC職員の案内でタクシーに乗り、現地に着くと2名の駐在員から歓迎された。
当時ニュー・ジーランドでサイクリングをする人は皆無に近く、彼はコースを聞かれた際に「レインガ岬からスチュワート島まで走る」と答えると、聞いた人は全員「信じられない」や「考えられない」といった様子。
旅行中に会ったサイクリストは2名のみで、うち一人は途中を一緒に走ったオークランドからネーピアまで走るというカナダの男性1名。
しかし、所々で「あなたを✕✕✕で見た」と言って話し掛けられて飲み物などを提供していただき、「良い旅行を」と言って去って行かれた。
夕刻のワカティプ湖畔を走行中には、追い抜いて行った車が道路の真ん中で突然停車。近付くと窓からいきなりビールの入ったジョッキが出され、「飲んでくれ」と言われて2杯も飲み干していた事、ロトルアで建築中の家のガレージで野宿した際には朝早く作業員に起こされ、注意されると思いきやトイレと洗面所に案内されて「使っていいよ」と言われていた事も忘れられない。
また、道路で立ち止まって地図などを見ていると、反対方向に向かって走行している場合も含め多くの人が車を停めて教えてくれ、未舗装の道路では ほぼ殆どの車が私の前後30~50m程は土煙を立てないよう徐行運転するなど、「入国から出国まで良い思い出しかない」と彼は話していた。
当時のニュー・ジーランドにおいて日本人は非常に珍しかったらしく、この点でも彼は幸運で物凄く親切にされ、泊めて頂いたり家で昼食をご馳走になった方々は殆どが亡くなられたが、子や孫を含めて今も付合いがある。
彼はサイドバッグに『小さな日の丸』を縫い付けて走ったが、買い物などで店内に居る場合も含め、常に「日本の方ですか」と声を掛けられていた。
これは『日の丸』を目にしているためと思われ、国旗の重要性を改めて認識させられたらしく「海外を走る際には必ず国旗を付けるべき」と話していた。
ちなみに、彼がニュー・ジーランドを選んだのは「直行便が無いから日本人は殆どいないだろう」という単純な理由であり、全く英語を話せず、英単語も殆ど知らない彼はシドニーでの乗継ぎを最も心配していたほか、旅行中に「英和辞典」と「和英辞典」の2冊を使用しない日は無く、海外旅行に辞書は必携が彼の持論。
なお、自転車の呼び方について当時は「bicycle」ではなく「push bike」がほぼ100%だったほか、ニュー・ジーランドが現在のようにサイクリングを前面に押し出した観光も展開するようになるとは夢にも思わなかったそうである。