「行った、銀輪走(走った)、見た、知った」……そして残った

サイクリングで駆け巡った彼との45年間

4.三大サイクリングについて[1]

(1)彼の三大サイクリングとは

◎日本本土中央部縦断(北海道の宗谷岬~鹿児島県の佐多岬の手前約2kmの地点)

彼が曰く「最大で最高の旅行」。

産声をあげて半日後、私はいきなり日本本土中央部の縦断に出発。

最初のサイクリングが日本縦断だったが、結果的に一般に言われる「ならし運転」は不必要ではないかと私は思っている。

 

◎日本縦断(北海道の納沙布岬長崎県福江島の大瀬崎)

都道府県の走破を目指し、本土において沖縄県を除いて走行した事が無い府県を「掠めるだけでも可」という考えで計画。

 

◎ニュー・ジーランド縦断(レインガ岬~スチュワート島)

「直行便が無い事から日本人は殆どいないだろう」という単純な考えで計画し、サイクリングにおいて最初で最後となる日記を書いた旅行となった。

 

なお、彼のサイクリングは趣味であり、日本縦断を含め全てのサイクリングにおいて単独行動で、協力者や伴走車という考えは全く無かった。

 

(2)日本縦断について

◎日本本土中央部縦断(宗谷岬佐多岬)[1974.07.20~08.20]

1973年12月30日。

南九州を走った際に宿泊した指宿YHに掲示してあった1枚の地図。

地図には稚内から指宿まで、日本海側を日本縦断したコースに線が引かれていた。

いつかは日本縦断をしたいと思っていた彼は、これを見て「日本列島のど真ん中を走ってやる」と決め、走行コースを練ったそうだ。

 

1974年7月20日

彼は稚内市を出発し、一旦 北上して宗谷岬に向かい、折り返して日本列島の中央部を佐多岬に向かう。

 

彼は、この旅行で見た「山形と福島の県境にある白布峠から見た福島県側」と「熊本と宮崎の県境にある堀切峠あたりから見た宮崎県側の風景」を最も良かった場所、「宮崎県の国見峠」と「兵庫県の若杉峠」は二度と走りたくない峠と話しているほか、日本の広さと美しさを知り、人々の親切や優しさと思いやりを痛切に感じたようだ。

 

なお、佐多岬に到る道路については、当時は大泊からは「佐多岬ロードパーク」という自動車専用道路。

ゲートで「宗谷岬から走って来た。目的地の佐多岬まで行きたいが通らせて頂けないか」とお願いしても不可能であった。

このため、前年12月に知った脇道を通り、道なき道を進むも岬の手前約2㎞の地点で断念せざるを得なかった。

 

あれから40年後の町道となって間もない2014年2月10日。

南国にも関わらず寒い雨の中、白い息を吐きながらズブ濡れで到達して完了。

この時は余りの寒さに飛び込むように岬への入口となる隧道に入り、中で暖かく感じながら暫く休憩して岬に向かったが、帰りに隧道を出て駐車場のトイレに向かう際、隧道入口の左側に注意事項が有るのに気付き読むと「軽車両の進入は禁止」とあり、自転車は軽車両に分類される事からこの点について彼は大いに反省している。

白布峠(1974.07.30)

堀切峠あたり(1974.08.17)

 

国見峠(1974.08.16)

若杉峠(1974.08.08)

佐多岬の手前約2kmの地点(1975.08.19)

佐多岬(2010.02.10)

 

◎日本縦断(納沙布岬福江島 大瀬崎)[1975.07.20~08.06]

本土の全都道府県を走行すべく、沖縄県を除いて彼がこれまで走行した事のない岩手、宮城、和歌山、大阪、四国4県と佐賀の1府8県を、「掠めるだけでも良いから走る」事を目的に、太平洋側を納沙布岬から福江島の大瀬崎まで東西ラインの日本縦断を行った。

 

今回も前年と同じ「はつかり5号」で上野を発ち、前回よりも1時間長い25時間後に根室に到着。

翌日の早朝に根室市を出発。根室半島を太平洋側を東行して納沙布岬に向かい、根室湾側を通って福江島に向かった。

 

早朝に着いた納沙布岬は濃霧で、すぐ近くの納沙布岬灯台も「汽笛は聞こえるが目前まで行かないと姿は見えない」状態であったほか、昆布が干してあるのを初めて見たことも忘れられない。

 

当時「せまい日本そんなに急いでどこに行く」という標語が流行っていたが、彼は改めて「日本は広くて美しく、優しさに溢れている」と思ったそうだ。

 

この旅行で写したスライドが全て見当たらず、引き延ばした納沙布岬での写真が1枚あるのみで、今も悔やんでいる。

納沙布岬(1975.07.20)

日本縦断コース。南北ライン(赤色)と東西ライン(ピンク)